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19th.Apr.2018

ロシア・ブリヤート共和国を旅する

シャーマンは他言できない神の名を告げた

文・写真 松井綾

 

シベリアのなかにある「アジア」を訪ねて

シベリア鉄道でロシアを横断する旅を計画し始めたころから、最初の目的地はブリヤート共和国と決めていた。この共和国は、世界最深で最高の透明度を持つバイカル湖くらいしか知られていないが、日本から直線距離が3000キロというこの地こそ、日本人のルーツだと一時話題になったことがある。先住民ブリヤート人のDNA解析や考古遺跡の出土品から、縄文人とのつながりを示唆できるというのだ。一説に過ぎないにしろ、氷河期にマンモスを追って人々が移動した壮大なロマンの原点がある。

それほど日本人に似たブリヤート人は、仏教を信仰する点も共通している。

18世紀の女帝たちによって仏教が公認、組織化されて以来、ロシア国内におけるチベット仏教の中心で、共和国の都ウラン・ウデ郊外にそびえるイヴォルギンスキー・ダツァンは、ソ連時代、唯一許可された仏教寺院だ。

宗教史をかじっていた私は、ブリヤート人がチベット仏教とともに信仰するシャーマニズムにも興味があった。シベリアのどこかで本物のシャーマンと会えるのではないか。旅の前からそう予感していた。

 

フェリーに揺られて日本海を越えていく

 

世の中には、何をしているのかよくわからない住所不定・職業不明の人々がいる。かくいう私もそちら側に半分足を突っ込んでいるので、類は友を呼ぶのかもしれないが、境港からウラジオストクまでのフェリーは、まさにそんな人種のるつぼだった。

韓国東沿岸のドンへを経由することもあり、乗客はロシア人や日本人のほか、韓国人も多い。そもそもシベリアには、クラスにひとりはアレクセイ・キムがいるといわれるほど、韓国系ロシア人が住んでいる。2泊3日の航海中、たまたま話すようになったユーリさんもそうだった。韓国の仏教センターで修行を終え、ウラジオストクから90キロ南東のナホトカに向かうところ。職業を尋ねると、「仏道修行をしています」と曇りのないまっすぐな瞳で返してきたので、そうかと妙に納得してしまった。

修行の一環なのか、仏教の聖地ブッダガヤをはじめ、チベット亡命政府があるダラムサラにも行ったことがあり、私も行ったと告げると見込まれて一緒にナホトカに行こうと誘われた。ナホトカというと、シベリア抑留の引揚げ船の出航地として知られるが、彼のような在家の修行僧が集う仏教コミュニティでもあるのだろうか。煩悩だらけで毛頭修行する気のない私は、シベリア鉄道の乗車まで十分な余裕がないこともあり、誘いを丁重に断った。

もうひとり、北朝鮮が見えないかと甲板に出ていたときに出会ったのがエルデム君。身長180センチを優に超す大柄な若者で、最初は日本人かと思ったのだが、なんと目指すブリヤート共和国のウラン・ウデ出身だ。韓国語とロシア語、英語を駆使してビジネスをしており、韓国でのビジネスミーティングの帰りだった。やたらお金儲けの話をしてくるのと、酒癖が悪いのがたまにきずだった。

ウラジオストクで携帯のSIMカードを買うのを手伝ってくれる親切な面もあるが、同じドミトリーに宿泊し、深夜へべれけに酔っぱらって戻ってくるや、寝ている私にキスをしてくれと言ってきたり、大いびきをかいたりして、翌日彼が知り合いのところへ移っていった後は、ドミトリーの住人一同ほっとした。

結局、ビジネスの詳細は教えてもらえず、シャーマンにも興味がないのか、会ったこともないと軽く流された。とはいえ、ブリヤート共和国と仏教。あとから考えると、この旅のキーワードが早くも船上で出そろった形になる。

 

シベリア鉄道でウラン・ウデへ

 

ウラジオストクからウラン・ウデまでは、シベリア鉄道99号で2日と約20時間。長旅で重要なのは食料だ。日本で用意したインスタント食品に加え、地元のスーパーでスナックやインスタントマッシュポテトを追加。リンゴを手に取るも、あまりにも人工的な色ムラで断念する。聞けば、ウラジオストクのリンゴはほぼ中国からの輸入品だという。駅の時計はモスクワ時間の夕方だが、ローカル時間では深夜に近い。定刻通り列車は発車し、ロシア横断の旅が始まった。

私の乗り込んだプラツカールトヌィーと呼ばれる3等寝台の乗客は、実にさまざまだ。親善試合に参加したモスクワの子供スポーツ団。親戚を訪ねていたブリヤート人のご夫妻。列車が駅に停まるたびにホームで煙草を吸い貯めるロシア人のおばちゃん。アルコールが禁止されている車内で添乗員に隠れて、ウォッカを回し飲みするマッチョな男たち。出稼ぎ先の木材製作所へ向かう中国人のおじさんグループ。

そんな面々とずっと顔を突き合わせていると、携帯の充電プラグの譲り合いや停車時間の買い出しをきっかけに、自然と距離感も縮まってくる。車内に張り出された時刻表をにらみながら、途中で10分以上の長い停車時間があると、皆、ホームに降りて買い出しへ。だいたいどこからともなく、英語を話せる人が現れて通訳になってくれる。「(シベリア名物の)ブルーベリーが買えたわよ」「ちょっとー困ったわ~ヤギのミルクしか売ってないのよ」「あそこでペリメニ(シベリアの水餃子)が買えるぞ」

同じコンパートメントにいたブリヤート人のご夫妻に、エルデム君から聞いた簡単なブリヤート語で話しかけてみた。「アムタテ(おいしい)」「バイルラー(ありがとう)」

発音が難しく、なかなか伝わらない。夫妻はやがて、ひとりで旅行している妙な日本人女性が自分たちの言葉を話しかけようとしていると気がついてにっこり。このご夫妻から、英語を話せる職場の同僚を紹介され、後にウラン・ウデで会うことになる。

 

冷静に、そしてブリヤートのダンスを踊ろう

 

ウラン・ウデをひと言でいうと、旧ソ連圏のありきたりな地方都市だ。オペラハウスなどの瀟洒な建物と無機質な建物が建ち並び、広場には世界最大の頭部としてギネスに登録されているレーニン像。なぜ身体はないのか突っ込まずにはいられないが、同じサイズで身体も作れば、それこそ巨大怪獣と闘う戦闘ヒーローサイズになってしまう。

訪ねた2016年9月は、1666年のウラン・ウデ建都から350年を迎え、広場では記念行事の直前練習の真っ最中だった。いかついレーニンの前で、ロシア人の先生がロシアとブリヤートの子供たちにロシア語でダンスを指示している。ロシア化するいまのブリヤートを象徴しているように思えた。

夫妻から紹介され、待ち合わせ場所のおしゃれなカフェに現れたナタリーは、30代前半のちょっとふくよかなブリヤート人女性だった。1年前にスペイン留学から戻ってきたところで、ロシア語のほか英語とスペイン語が堪能だ。両親とはロシア語で会話をし、両親が祖父母世代と会話する時はブリヤート語。ブリヤート語はあまりしゃべれないと残念そうに言いながら、「ブリヤートとして生きたいの」

と言うナタリー。女性の平均初婚年齢が20代半ばという地域で絶賛婚活中。相手は同胞に限るのだという。「なかなかいい人がいない」

とため息をついてはいたが、ブリヤートについて熱く語るその眼差しの美しさに気がつく人は、遅かれ早かれ現れるだろう。

いま、彼女のように自らのアイデンティティーを再評価するブリヤートの若者が増えてきている。モスクワやサンクトペテルブルクではなく、ウラン・ウデ。オペラでもバレエでもなく、草原の伝統舞踏。ナタリーとともに、そんな若者たちに人気のブリヤート女性シンガー「マリーマリー」のライブへ行った。

レーニン広場の近くにあるライブ会場は、100人ほどのブリヤート人で満員御礼。共和国全体の人口の6割を占めるロシア人の姿はほとんどなかった。マリーマリーのハスキーで低いトーンの歌声は、アンニュイな曲やフォークソングにぴったり。ロシア語の歌が続くなか、ブリヤート語の歌になると、若者から拍手喝采が起きた。

ライブの休憩時間に、同じ建物内にオープンしたばかりのショップ「ZAM」を物色する。地元若手デザイナーによるチベット仏教のデザインを取り入れたノートやトートバッグ、おしゃれな外装のはちみつ、伝統衣装をアレンジしたファッションなど、東京の南青山あたりにあってもおかしくない、洗練されたアイテムが並ぶ。シンプルなTシャツには「KEEPCALM and DANCE YOKHOR(冷静に、そして伝統ダンスを踊ろう)」というメッセージが。ナタリーのように穏やかな外見と合わせて内なる情熱を秘める人々を言いえて妙だった。これぞ、まさにクール・ブリヤート。

 

果てのない草原は騎馬民族の故郷

 

ロシア風の街で、ブリヤートのシャーマンを探していた私は半ばあきらめていた。ナタリーもその周りの友人たちも、ゲストハウスのスタッフも会ったことはないと言う。ウラン・ウデにシャーマンはいない。ならば、バイカル湖を船で横断し、シャーマニズムの聖地オリホン島を目指そう。しかし時は8月末。定期船はすでに運航を休止し、シベリアの短い夏は終わりを迎えていた。

もの足りない気持ちでいたところ、滞在先のゲストハウスで、郊外にあるユニークな村のことを知る。「セメイスキ」と呼ばれるロシア正教古儀式派の人々が昔ながらの信仰と暮らしを維持し、その合唱はユネスコの無形遺産に登録されているという。大好物のユネスコ世界遺産。なによりセメイスキの英語名、Old Believersという響きが格好良い。バイカル湖の前にちょっと寄り道することにした。

現地で申し込んだ半日ツアーの待ち合わせは午後3時と遅め。そこから車でツアーガイドのエレナさん、同行者のスイス人ご夫妻とともに村へ向かう。郊外にはソ連時代に作られた空港と、夥しい数の画一的なダーチャという別荘が並んでいた。空が曇っていることもあり、一時代前の空気感があたりに漂う。

30分ほど乗車し、セレンゲ川沿いの丘で途中休憩を取ることになった。丘一帯の木々には、色とりどりの祈りの布が幾重にも巻きつけられている。それを横目に登れば、美しい平原をゆったりと流れる川が一望できた。この河畔一帯が、チンギス・ハンにゆかりあるメルキト族の本拠で、若き日の青き狼が駆け回ったモンゴル帝国揺籃の地だ。そういえば、中国の歴代皇帝に万里の長城を築かせた騎馬遊牧民・匈奴の本拠もこのあたり。この草原は、東へ西へ、果てしなく繋がっていくのである。

 

セメイスキとは、「家族のように生きる人々」

 

やがて舗装もままならない凸凹道へ入り、家畜の群れをまきながら進むこと、もう30分。セメイスキの村が現れた。17世紀のロシア正教の宗教改革に反対した人々は、異端視されロシア各地で迫害を受けながら、ロシアを横断する流浪の旅を続けた。子供をひとり、またひとりと失うような過酷な日々の末、たどり着いたのは、地図上では草原の中の一本道の行き止まりで、僻地中の僻地だ。

質素な暮らしを想像していた私は、家々の門の美しさに驚いた。華麗で繊細な彫刻が施され、さながら安住の住処を得た人々の魂が込められた芸術作品だ。

村の小さな教会に入る時は、髪を隠し、巻きスカートをまとった。十字架は正確には十字ではなく、先端が8か所ある八端十字架で、ロシア正教でも用いられるものだ。長い髭の神父は、アンティークを集めるちょっと変わり者と噂される人物だった。教会の向かいにある小さな博物館には、人形や乳母車、暖炉用のふいご、糸を紡ぐ機械などの日用品が所狭しと飾られていた。

2世代前、第一次大戦の余波を受け、男手がなくなった村では、草刈りや馬の世話、バター作りなど、重労働にも女性や子供が携わっていた。村の女性が、「だから私のおばあちゃんは、マシンのように子供を作ったの」と、冗談まじりに言える時代になって、心から安堵した。

すっかり暗くなったころに、一軒の家に招かれた。中年の男性ひとりと女性ふたりが歌と音楽でお出迎え。手作りの夕食をご馳走になった。基本的に自給自足で、パンは酵母から手作りし、バターもジャムも、肉もすべて村で賄っている。どれも素朴な家庭の味で、冷え込み始めた夜にあったかいスープが身にしみた。

そこに登場したのが恐るべき自家製ウォッカだ。アルコール度数は未知数。ぐいっとあおってあっという間にいい気分になったところで、唐突に民族衣装の試着が始まる。どれだけ冬は寒いのか懸念するほどスカートを何枚も履き、ずっしりとした琥珀のネックレスと帽子を身に着ける。移動する民は、財産の宝飾品を始終身につけるものだが、流浪のセメイスキも同じ。バルト海沿岸が産地の大粒の琥珀が連なるネックレスの重みが、ずっしりと肩に載った。

ここで記念写真でも撮るのだろうとふんでいたが、始まったのは結婚式の再現ドラマだった。私は花嫁役で、新郎役のスイス人男性とその母が結婚の挨拶にやってくる。私の母役のマーサ・ママは貢物が足りないと不満だ。「もっとキノコと木の実をこのかごに入れないと娘はやらないよ。これしか出せないのかい。ケチだね。大事な娘を嫁がせるなんて先が思いやられるよ」

とでも告げたのだろう。ようやくかごがいっぱいになりお許しが出ると、晴れてめでたい結婚式だ。アコーディオンの伴奏に合わせてみんなで歌えや踊れ。自家製ウォッカも足運びも、すごい勢いでぐるぐる回る。ひと息つくと、控室に新郎とともに呼ばれ、ポンと渡されたのは赤ちゃんの人形。今度は誕生を祝う歌が始まるという、激動の寸劇だ。

無形遺産の合唱は、多い時は8から10のパートに分かれるそうだが、3人でも全員が歌姫レベルの歌唱力で、美しいハーモニーと哀愁を帯びた旋律に、目頭が自然と熱くなる。貧困を嘆く歌、女性のささやかな幸せをかみしめる歌。娯楽のない何百年もの間、「歌こそ人生」を体現する圧倒的な合唱で日々の暮らしを彩り、世代から世代へと受け継いできた。

セメイスキの意味は、「家族のように生きる人々」だ。その村で結婚し子供を得た私は、酔っ払っていたこともあり、すっかり家族の一員になったような感覚だった。最後に満点の星空の下で、マーサ・ママと、「本当に結婚するときは私に知らせなさいよ」と約束した。

 

ついに出会えたシャーマン

 

翌日、二日酔いのなか、エレナさんから手伝ってほしいことがあると呼び出される。ツアーで使っているホンダ車の調子が悪く、替えたい部品のパーツがシベリアにはない。そこで私に、やたら重い金属製のホイールを日本に持っていって、新しい部分を送ってくれ、というのだ。日本の中古車だらけのウラジオストクに問い合わせれば、すぐにでもわかりそうなものだが、バックパッカーに数キロの余計な荷物はつらい。断るついでにエレナさんにシャーマンについて聞いてみる。「もし会いたいなら、シャーマンを呼んで儀式を見学できます。手配しましょうか」

観光客向けの儀式ではあまり意味がないように思え、それは辞退することにした。やはりオリホン島へ行かなければならないのか。

次の街へ移動しようと思っているころ、ゲストハウスに気になる人物がいた。セルゲイというロシア風の名前のブリヤート人男性で、年のころは30代半ば。夜な夜な共有スペースのキッチン兼食堂に居座り、スーパーで買ってきたホールケーキを広げてスタッフと平らげていた。近くを通ると、スプーンを差し出して一緒に食べようとロシア語で話しかけてくれる。その驚くべき甘党っぷりゆえ、強い印象を残していた。

彼がホール食いするケーキは、激甘なバタークリームたっぷりで、ひと切れでも食べきるのがつらい。これまでに出会った同じくらい極度の甘党たちは、皆、チベット仏教のお坊さんだった。甘党かつその独特のたたずまいから、もしかしたら還俗したお坊さんなのかもしれないとふんでいた。どんな話題になっても、最終的に彼が穏やかに話をこうまとめるのだ。「一番大切なものは、世界の、あなた自身の調和です。ハーモニーです」「祖先を大切にしましょう」

セルゲイの重鎮感にはただならぬものがあり、スタッフになじんでいることもあって、オーナーなのかと思ったが、翌朝、ドミトリールームから出てくる姿をみて、ゲストのひとりだと知り驚いた。シンプルなシャツとパンツに、黒い小さな肩かけカバンを持って、街へ出ていくと、夜にはまたケーキを下げて戻ってくる。何者なのか疑問のまま、何日目かの夜、彼は唐突にこういった。「私はシャーマンなのです」

思わず息をのむ。だが、突然のカミングアウトに驚いたのは私だけで、宿のオーナーで英語の通訳をしてくれていたデニスさんは、「あ、そうなんだ」とあっさり流す。宗教家っぽさは節々ににじみ出ていたので、たしかに違和感はあまりなかったが、こんなゲストハウスの片隅でホールケーキをバカ食いしている人がよもやシャーマンとは思えない。俄然興味が出た私は、彼に話を聞くことにした。

セルゲイ、と呼び捨てにしていいものか躊躇するが、彼はおそらく本物のシャーマンだ。精悍な顔立ちとは裏腹に、甘いものの食べすぎのせいかお腹はちょっと出てきている。でも、そのジェスチャーや言葉の発し方にまるで無駄がない。武道の達人のように隙がないのだ。この場所でこの時に喋るべくして喋り、手を動かすべくして動かすのだ、とでも言わんばかりの空気感。

ふとセルゲイは、小さな肩かけカバンからおもむろに数珠を取り出した。宙を見つめたかと思うと、数珠のひと玉ひと玉を指で動かしながら、ぶつぶつと何かを唱えている。会話中にトリップしてしまうのも、ごくごく当然のことのように思えた。念仏を終えた彼は、「許しを得た」と言い、私にブリヤートのシャーマニズムを語り始めたのだった。

ブリヤートの神々の世界にはヒエラルキーがある。仏陀もモハメッドもキリストもすべてそのピラミッドの中盤に含まれている。頂点に君臨する全知全能の神こそが「マネサガンガルバウ」だ。そして、各々の階層の神「ダルハン」と交信するのが、「ボウ」と呼ばれるシャーマンたち。「第77位のダルハンは……」などと細かい話を聞いていたが、私のような凡人はついていくのに精一杯で、少し酔っ払ったような気分を紛らわせるため質問した。「シャーマンは病気も治せるですか?」「ハーブなどの自然療法を処方します。末期癌の患者さんも私のもとに来ます」「シャーマンは透視能力があるのですか?」「以前は20キロ先の馬の音が聞こえ、どういう人が来るのか察することができました」「以前と言うのはどういう意味ですか?」「私はいま、『ボウ』ではないのです。さらに上の、ダルハンになるために修行をしています。セルゲイというのも私の本当の名前ではありません」

ゆくゆく、仏陀やキリストなどの開祖たちと肩を並べることになるかもしれない人物が目の前にいる。ここまで聞くと、なんだか新興宗教でも起こそうとしているようにも取れるが、彼のピュアな眼差しを前にして、そんな考えを持った自分が恥ずかしくもなる。ふと、セルゲイは私の背後を見て、「黒い甲冑を着た祖先があなたを守っています。とても強い存在です」

と言う。我が家はたしかに大昔は武士だった。家紋入りのネックレスをお守りにしている。そういうと、「とてもいいことです。あなたは守られています」と目尻を緩め、こう付け加えた。「あなたは何かを書いたほうがいい。祖先もそれを望んでいる」「私と会ったことをあなたは書いていい。私には神の意図がわからないが、マネサガンガルバウはあなたにシャーマニズムについて語りなさい、と命じています。これがどういうことになるのか、私には本当の意味はまだわかりません。どういうことなのでしょう」

元シャーマンにすらわからないことが、私にわかるはずもない。シャーマニズムの神髄を私ごときが聞いてよかったのか、狐につままれたような気持ちのまま、「祖先を大事にしなさい。調和を常に意識しなさい」という彼のメッセージを心に刻み、会合は解散となった。

 

いま、海と暗闇を司る神が非常に怒っています

 

が、話はここで終わらない。それから1時間ほどたった深夜、共有リビングにいると、真っ暗なドミトリーの部屋からセルゲイが慌てて出てきて、まっすぐに私のところへ。真剣な表情で何事かをロシア語で語りかけてくるのだが、私はポカンとするばかり。伝わっていないと解するとスタッフを呼びに行き、通訳されたのは下記の言葉だった。「いま、海と暗闇を司る神が非常に怒っています。私がその神の名前をあなたに教えなかったからです。だから、いまから神の名前をあなたに告げます」

神様を怒らせてしまった彼の顔は真剣そのものだ。私も思わず緊張する。「ダライ・エルゼン・ダルジャル・ハン・ナヨン・アハイ」

ダライはダライ・ラマ法王と同じチベット系の言葉だろうか。もはやちょっとした呪文で、覚えるのに必死だ。セルゲイも本名を隠しているように、名前を知らせることは、とても特別なことのようだ。私に神の名を告げ、ほっとした表情でセルゲイは戻っていった。残された私は、ブリヤードのシャーマニズムの奥義に触れたような気がして、神様の名前とこの話は他言してはいけない、と心に決めた。

とはいえ、浅はかな人間の記憶は薄れるもの。それから3か月ほど経って、日本に帰った私は、友人にこの不思議な体験を初めて語った。すると翌日、あのウラン・ウデの宿の主人デニスからメールが一通。「セルゲイがあなたのことを気にしていました。万事順調ですか?」

それまで、いっさい連絡などなかったのだが、このタイミングで送られてくるとは恐れ入った。神様はどこかで名前を知っている私を見ている。今後はシャーマニズムについて話すときは、神々に伺いを立てなくては、と襟を正したのだった。

 

【まつい・あや】1981年生まれ。遺跡フリークのフリーライター。学生時代に考古学を専攻し、アイルランドとトルコの発掘に参加。日本の歴史雑誌、ベトナムの現地情報誌の編集職を経て、現在はラオス在住。人類の遺産、とりわけ荒野の都市遺跡、後期青銅器時代、伝統文化が大の好物で、これまでシルクロード沿いを中心に約70の遺跡を探訪する。

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